グラスの雫№6 ブラックニッカその45
ニッカウヰスキーの余市蒸留所にはポットスチル、つまり、モルトウイスキーを造る設備しかなかった。常々竹鶴は自社で連続式蒸留機を使ってグレーンウイスキーを造らなければと思っていたはずである。なぜなら、連続式蒸留機で造ったグレーンウイスキーを混ぜてこそ本格的なブレンデッドスコッチウイスキーが完成する。
竹鶴に連続式蒸留機導入のきっかけを作ったのは、1才年上の朝日麦酒社長、山本為三郎であった。
山本為三郎(やまもとためさぶろう)1893~1966。わずか16才で家業の山為硝子を継ぎ、三ツ矢サイダーと提携、半自動製瓶機を導入、後に、大日本麦酒専務、大阪ロイヤルホテル設立等、常に先端を歩みつつ大きな組織をまとめ、ひっぱってきた時代の先駆者である。摂津酒造時代の竹鶴とも顔見知りであった。実際、竹鶴がスコットランドへ留学する際には、神戸港まで見送りに行っている。
竹鶴に連続式蒸留機導入のきっかけを作ったのは、1才年上の朝日麦酒社長、山本為三郎であった。
山本為三郎(やまもとためさぶろう)1893~1966。わずか16才で家業の山為硝子を継ぎ、三ツ矢サイダーと提携、半自動製瓶機を導入、後に、大日本麦酒専務、大阪ロイヤルホテル設立等、常に先端を歩みつつ大きな組織をまとめ、ひっぱってきた時代の先駆者である。摂津酒造時代の竹鶴とも顔見知りであった。実際、竹鶴がスコットランドへ留学する際には、神戸港まで見送りに行っている。
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